大谷吉継陣跡
おおたによしつぐじんあと小早川を見張るため!?天才軍師の陣跡
「大谷吉継陣跡」は、山中(やまなか)の「大谷吉継の墓」から少し下った場所にあり、ひっそりと碑が建っています。大谷隊は、関ケ原の合戦が始まる十日程前に「若宮八幡宮」上の急斜面に陣を作り始めました。この陣は、空堀を左右に巡らせ、山中城と呼ばれるほどの要害の地でした。合戦後、徳川家康も大谷陣を一夜の宿として使用したという話もあります。戦術に長け、また官僚としても優秀であった吉継は、陣作りにも力を発揮しました。当初より小早川秀秋の裏切りを予想していたため、松尾山の真正面のこの地に陣を定めたというのも驚きです。
壮絶なる「男の美学」
大谷吉継は、親友の石田三成に徳川家康との戦いを打ち明けられた時、無謀な戦いであることを説き続けました。しかし、いざ決戦の舞台に立つと、三成の“義”を貫こうとする決意は固く、病身でありながらも死に装束で合戦に参加します。関ケ原合戦では、多くの武将達が自らの利益のために参戦していたといわれています。そんな中、“義”という目に見えない価値のために死を選んだ吉継の生き様は、まさに男の美学といえるでしょう。
スポット詳細
住所 | 岐阜県不破郡関ケ原町大字山中30-1 |
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アクセス | 平塚為広碑より山中へ徒歩20分 |
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